昭和50年08月12日 朝の御理解
御理解 第95節
「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
教祖様の神様を拝んで下さる、お取次を願い出ると、神様をいわゆる拝んで下さる。それに御祈念をして下さる。それで御祈念料とか、御祈祷料と云うものは取られない。いわゆる銭金では拝まんと云う信念、そういう姿勢が自ずと金光教の信心の、一つの風をなしとるので御座います。けれども果たしてね、現在の金光教が本当にこう云う、神を矢張り商法には使わんとか、銭金では拝まんとか言って。
それが金光教なんだけれども、果してそうだろうかと、一遍本当に厳しく検討して見なければいけないと思うのです。これは何処までもお道の教師と云うか、取次者が云うなら心掛けでなからねばならんと同時に、御信心を頂いとっても金光様の御信心はお供えの多い少ないでおかげが違うのではない。また幾ら幾らの御祈祷料を出さなければ拝んで貰う事は出来んと云う様な信心じゃないですよとまあ、云える訳です皆さんとしては。だがこれを厳密に取次者の立場で考えてみると。
確かに金光教の信心はない様に思うておったんです。けれども昨日私は熊本の富永先生があちらの祈願祭の御礼参拝が昨日御座いました。そして昨日の朝の御理解を、もうそれこそ繰り返し頂いて、もう今日のもう度度の事で御座いますけど、今朝の御理解にはもう頭が上がりませんでしたとこう云う、椛目合楽を通して二十数年になりますが、その間例えば、毎日お参りして來るお供えは、先ずお供えなしにお参りをして來るその信者に親先生がお取次をなさっておると云う事の精神がです。
私はもう今日の御理解にはもう頭が上がりませんでしたとこう云う。と云う事は沢山のお供えがあればそれだけ念を入れて拝みよるという云う事になる訳です。沢山お供えなさる方達が何か問題があると真剣に拝む。惟銭金で拝んどる訳です。だが富永先生が言われる様な意味での事なら、先ず今の教会の殆どの先生は銭金で拝みよると思いますね。第一です、しかも、おかげだけは毎日間違いなくおかげ頂きよると云う事が、素晴らしいと云うのです。もし取次者がですね。
不浄を犯してこの人はお供えせんけんで、もう本当に汚い奴じゃあると云う思い方でです、もしお取次したら、先ず助かる筈がないとですもん。私はその富永先生からしきりにその事を、私が丁度四時半でしたから、頂き終られるのが、ですから先生にお食事とも差し上げさして頂いてから、またその事を繰り返し言われますから、改めて私自身が成程、私が銭金で拝みよらんと云う事をはっきりそのおかげで分かるのです。
おかげを頂くと云うが、全然お供えせんでもお願いに來ればおかげのお取次さして頂きよると云う事だけでです、銭金で拝みよらんと云う事が分かるです。形だけじゃない真からだと云う。皆さんそういうお取次を頂いとられるとですけ、おかげ頂かんならおかげ頂かん方がどうかおかしか。本当に教祖の神様が、此方は銭金では拝まんと仰るが、本当に私大坪総一郎は、銭金で拝みよらん事を私は改めて思わせて頂きました。
もう何十年間ですよもう椛目時代から、しかもそりゃ無理な願いと云うか、夜もなからなければ、夜中もない様な願いですよ。もう人なんか押し退けちから、もう此処いっぱい仕えておる時だん、まあ云うならば不作法な、けど私は何時もこの人は無邪気な人だなあといつも思うんです。いわゆる昨日申し上げました様にね、それこそ赤子が母親の膝に這上がって來る様に、誰が居ろうがはねくりやっちから、登って來る様なもんです。だから私は何時もそれを思うのにですね。
本当に邪気がないな無邪気だなと、そういう気持ちでお取次さして貰うんです。だから日々おかげを頂くと云う事に、日々お供えせんでもおかげを頂く、おかげだけなら頂くと云う事が分かる。私が銭金で拝みよらん証拠と云うものを、改めてです、昨日富永先生から何回もそれ繰り返し言われてから、ほんなごっちゃなと思いました。皆さんもそこを思うて貰わにゃいけません。そこを信じて貰わにゃいけません。
昨日は又、大阪の泉南教会と云う教会、息子さんが暫く此処に修行に椛目時代に来とった事があった。私が阿倍野の教会に高橋さんと一緒に参拝させて貰うた時に泊まらせて貰うたお教会なんです。そりゃ活き々とした教会です。その先生から手紙が、私宛でなくて、おかげの泉編集部宛に来とるのです。これは私が封を切る訳にはいかんけれども、まあ明渡先生だからと思ったから、現金封筒で来ていましたからね。
あの封を切ってしまったんです。そしたらその中にどう言う事が書いてあるかと云うと、月々おかげの泉をですね、活き々とした合楽の御比礼を頂かせて貰うて有難いと云う御礼に加えてここに同封させて頂いておるお金は編集費としてお使い下さいませと書いてある。一万円送って来とった。もうちょっと合楽にお付き合いのある先生方なんかと云うのは、本当に珍しい先生方ばかりだと思うです。
おかげの泉の代を送るならね、一年分だって千二百円でよかっちゃけんで、それに編集に編集費としてお使い頂きたいと云うて一万円送って来て、おられる訳で御座います。そこで私が末永さんと西岡先生とを呼んで、あのおかげの泉の代金だけを、一年分なら一年分だけを頂いて、後はお初穂にさせて頂いたと云う事を手紙に出しとく様にと云うてやりました。そしたら夕べ遅う出て来たらここに書いてあった。持って来て下さいましたから読ませて頂いたら、私の名前で書いちゃる。
しかも一万円かた値打のある手紙が、内容が書いちゃる訳です。そりゃもう見事な筆跡で文章も勿論、これは云いませんでしたから西岡先生が自分で文章を作ってから、永々とお軽さんの手紙のごたるとを書いちゃる。(笑い)そりゃもう、一万円貰うとこがしこ書かにゃん。(笑い)そりゃ文章でん何でん素晴らしい文章でね。私はこの手紙を読ませて頂きながら思ったんですけどね。こういう内容の手紙を書くなら、これは銭金で拝みよるのと同じ事と思いましたよ。
それこそ例えば億万の金ばお供えしようが、例えば金光様なら金光様が御神米一体しかお下げにならんでしょう。百円のお供えでちゃ御神米一体です。それが金光教です。それにそりゃまあ珍しいですね。編集費として一万円も送って來るとは。教会はそげん楽なとこばかりはありませんからね。所がそれに対して、こういうその見事な手紙を(笑い)西岡先生書いておられる。これが反対であったらまた結局返事も出さん事にもならせんだろうかと云う事ね。
お初穂のことずけなり、どうぞお願いして下さいと云う事だけだったら、しかもそれがいつも一遍でなくてから、二十何年間も続くと云うたら、それこそ返事も書こうごとないと云うのが普通ではなかろうか。しかしそれであったら、もう金光教の信心にもとるのですよ。 だから、惟は折角書きなさったけれども、書き直して頂いて、編集部の方から確かに一万円はお受取致しましたと云うお受取。
同時に編集部にこれだけ篤い祈りを送って下さる事の感謝の気持ちを表した手紙か葉書を出して頂かなければならないと云う風に改めて思うたんですけども。銭金では拝まんと云う事はです、けれどもなら銭金が大きければ御神前に出て拝むと云うと矢張り銭金で拝みよるのと同じ事と云う事になるのですよ。私はここの所をですね、今日は思うて改めて、云うならば金光教の私が知った大変偉い先生がおられました。久留米に田中さんと云うリヤカー屋さんですね。
田中工場と云う大変、元久留米教会の総代してありました。その方のおばあさんと云う方が篤信な方で、もうそれこそ、どこの教会にでもお付き合いをなさる訳です。御大祭と云えば何処まででん、もうだから、そういうその特別な信心をなさいますから、と云うよりも特別なお供えをなさる訳です。それでもう或意味でもう先生方がおっとりぐっちょちゅう感じがありましたですね。
或時にその教会にお参りさせて頂いたら、田中さんからこんなに、その当時十円札ですがこんなに厚いお初穂が送って来たと朝の御説教の時に話されました。そしてこういう手紙を書いて出しよると云うて、御理解代わりにその手紙を読まれました。そちゃもう素晴らしい本当に素晴らしい達筆の先生でもありましたし、また文章も上手でしたが、それに対して愈々健康で、愈々商売が繁盛する様にと云う意味の事をいっぱい書き連ねて、本当にそのままが御教えと云う様な手紙を。
こんなに分厚い手紙を出しておられる。その手紙を読んで聞かせてそれを御理解代わりになさいました。その時はそう思わなかったけど、今日それを改めて思いましたね。この先生はやっぱり銭金で拝みござったばいなと云う事で御座います。どんなに人が偉いと云うてもこれ程のお初穂を包んだから、そのお初穂に対する手紙です。これでは生きた働き、金光大神の信心を継承しとるとは云えないがです、私は改めてです、今日の私は銭金では拝まんと云う事と。
また銭金で拝みよると云う事をです。二つの例をとらせて頂きましたが、同時に何十年前に思い出させて頂いたその先生の田中さんに送られる手紙を聞かせて頂いた事を思わせて頂いてです。ははああっちはやっぱり銭金でやっぱり拝みござったばいな、それであれだけ念の入った手紙を書いてあったんだなあと云う風に改めて思うのです。これではいけない。まあ今日ね、金光様の先生になったと思うて聞いて下さい。
金光様の先生はその位厳しい姿勢をもってお取次させて頂かんならんと同時にです、ならおかげを頂く側の方もまたです、そういう信心を頂いとるんだと云う。私は金光教の信心の云うならば真随と云うものを、皆さんの信心の中に真情としなければならないと云う事で御座います。特に今日は先生方ここん所をしっかり、もし皆さんが布教に出られて、そしてどういう信者に取り組まれるかわからんけれども。
沢山のお供えが来たから立派な返事を出す。この人はお供えをせんからと云う心であったら、もう何遍かはおかげ頂くか知れんけれども、おかげ頂けないでしょう。おかげが現れて來る筈がないです。取次者がもしそういう心掛けでお取次さして頂いたら、云う様な事を心してお取次しなければならない。心してお取次頂かにゃならないと云う事を聞いて頂きました。
どうぞ。